教えるということ

夏に、習っているペン習字教室で、こんなことがありました。
その時習っていた課題は、「縦書きの行書文」でした。なまじペン習字歴だけがある自分にとっては、初めての勉強ではなかったのですが、後ろの席のHさんにとっては、生まれて初めての「行書の文章」書きの日だったのです。一文字の授業だけをずっと受けていたHさんにしてみれば、縦一行の中に文字を納めていくというのは、先生のお手本があるとはいえ、感覚というのがなかなかつかめないようで、文字の大きさが不揃いになってしまったり、はみ出してしまったり、自分にも充分気持ちがわかる、デビュー戦のようでした。

授業の最後にはいつも、その日習ったことを清書して、先生に添削をして頂くのですが、自分もしていただき、Hさんも見ていただいた後です。先生が、「Hさん、とてもよくかけていらっしゃる!」と嬉しそうにおっしゃいました。私も見せてもらい、自分が書いたのも見せ合いっこして、雑談が始まりました。

先生が「Hさんは、本当にお手本をよく見ていらっしゃる。『お手本を見る』というのは実はとても難しいことで、目には入っているけれども意味を理解してない場合もあるし、頭では理解できても手が言うことを利かない時もあるのです。でも、Hさんは本当にお手本に忠実で大事な部分をよく汲み取っていますよ。」
Hさんが言います。「でも、私は必要以上に力が入ってしまって、紙の裏が真っ黒になるくらい、力を入れてるんですね。書くスピードも遅いし。」よくよく見ると、確かに紙の裏が滲むくらいになっていましたので、本当に力が入っているみたいでした。でも、じーっとよく見ると、先生がいつもおっしゃる行書のポイントは確かにおさえています。行書だからと言って、何でもかんでも続け字にしない。グニョグニョ書かない。メリハリをつける。いつも先生がおっしゃっているポイントだ。初心者ゆえの硬さはあるものの、本当にきちんと書けているところばかり。先生は「あとは、回数ですよ。いろんな文章を何度も書くことです。そうすれば自然と無駄な力は抜けていくものです。大丈夫。今のままで頑張って。」と。
続いて自分のを見てもらう。Hさんは「わ〜、きれい。」と言ってくれました。先生も「本当に、仕上げがきちんとできてますね。作品は、どんなに一文字ずつがきれいでも、最後まで書けてなければ何の意味もないことですから。」でもね・・・。「よ〜く、じ〜っと見るとね…。」と先生は続けます。「本当はこの文字は、払いが長すぎですね。このひらがなも大きさがバラバラ。この文字も…、この文字も…。」といろいろ出てきます。そこでHさんが、「でも、私にはきれいな仕上がりにしか見えません。」先生が「そうなんです。パッと見てきれいであればまったく問題はないし、結局のところ、それでいいんですよ。それだけ、この文字で失敗した点を次の文字、次の流れで挽回できる力があるのでしょう。」と。
「ただ、書を学んでいる人から見ると、ひと目見た後、その後じっくり見ると、すぐに、いろいろ分かってしまうのです。もう一つだなー。本当の書を書けていないなーと感じてしまうのです。」
「経験の浅いHさんが目指すのは、これから何回もいろんな書を書いて、全体から文章を見ることですね。何度かの経験があるねねさんは、さらなる未知の書に接することですね。そして、基本の文字を何度も稽古して、安定した文字を書けるようになることですね。」と。

先生は、すべてお見通しなのだ。始めからやり直したいと思った自分の心も見抜いていらっしゃったのだ。耳の痛い言葉の中に、とても深い愛情を感じた。とても嬉しかった。それは、Hさんにとっても同じだったようで、先生のひと言が、自分の自信につながってとても嬉しかったと。これからもがんばっていきたいと。